ゲストハウスプレスー日本の旅の、あたらしいかたち。

 

#04 宿 ホトリニテ(山梨)前編

THE OWNER INTERVIEW #04
宿ホトリニテ(山梨)/ 高村直喜さん

前編 実家の宿を継ぐまでのおはなし

本全国に増えているホステルスタイルの宿「ゲストハウス」。ゲストハウスプレスでは、オーナーや運営者へのインタビューを通して、ゲストハウス運営に込められた深い想いや目的がどのようなものかをお伝えします。ご紹介する個性あふれる宿たちは、「安いから泊まる」「旅の途中だから泊まる」という従来の安宿の概念を越え、ホテルや旅館とも違う、新しい旅の概念を、あなたに教えてくれるかもしれません。

第4回目のオーナーインタビューは、山梨県山中湖村にて元保養所だった宿を新たにつくりかえ、宿・ホトリニテとして営業をされた、宿主高村直喜さんです。ホトリニテは、宿泊は素泊まりのみとし、ドミトリー室も設置、元食堂だったところにライブラリーを備えるなど、「ゲストハウス」「旅館」といった枠に囚われない新しいタイプの宿です。音楽を志していた高村さんが、地元山中湖村で三代目として宿を継いだその経緯やキッカケをお聞きしました。
(全2回連載)聞き手:西村祐子(ゲストハウスプレス編集長)

音楽というツールを通して様々な世界を知った20代

−−−もともとこの宿は祖父の代からのものとお聞きしましたが、継がれたのは最近ですね?それまではどんなことをしていたか、お聞かせください。

高村:まず、高校のときに音楽に目覚めて、高校を卒業したと同時に東京に出ました。高校1年生の後半くらいのときに、友達がいる沼津(静岡県)のほうのクラブに遊びに行ったんです。で、そこで聞いたクラブのDJの雰囲気や何か不良な感じ、みたいなものに憧れて、「すげーかっこいい!」と思ったんですね。その感じというのがパンクとかロカビリーなんかのジャンルで…。そうそう、僕、高校のときはモヒカンだったんですよ(笑)。

−−−ええっ!?今のこの好青年っぽい見た目から窺い知れない過去ですね(笑)。

高村:その「ちょっと悪い感じ」に憧れてはいたのですが、でも明らかにパンクでは食べていけないだろうなあと…。

−−−えらく現実的だなあ、モヒカンだったのにそこは考えてた。

高村:そうそう。みんな就職とか考えたりしてね。パンクでは食えないという理解はあるのですが、それとは別に、当時付き合っていた彼女にカッコイイことを、言いたいわけです。「東京で音楽やる」とか言ったらカッコイイな、と。当時はちょうど、時代的にヒップホップが出てきた頃でした。何故かわかりませんが、ヒップホップだったら食えそうな感じがしたんです。それでパンクのDJからヒップホップのDJに変わって。で、東京に出ました。本当に不純な動機です(笑)。

ホトリニテを象徴する広いライブラリースペースにて
ホトリニテを象徴する広いライブラリースペースにて

高村:東京では、渋谷の服屋さんに知り合いがいたので、そこで働かせてもらって、その服屋さん経由でクラブを紹介してもらったりして、クラブで回すようになったりと、活動の幅を広げていきました。そんな調子で2年くらいやって、その間にある程度東京の音楽業界の仕組みみたいなものがわかってきたのですが、そのことがあまり自分の中で納得できなくなってしまって。

このままいったら食える・食えないとかではなくて、面白みがなくなって来るような気がしたんです。それで「ちょっと東京離れよう」と思って、カナダに行くことにしました。

海外で知った日本の文化の奥深さ

−−−行き先がカナダだったというのはなぜですか?

高村:他の条件もありましたが、大きかったのはその頃、2000年あたりのカナダ発で出てくる音楽がすごく優良なのが多かったことですね。テクノだとか、エレクトロニカなど、いろんなジャンルが出てきていたんです。当時というのはある種、音楽の転換期に当たるような時期だったんですね。僕が20〜21才位の頃です。

 

ただ、自分は、「海外の音楽シーンは、すごいんだ!」と思っていたのですが、行ってすぐに、実は日本のほうが凄かった、ということがわかってしまった。技術的なものもそうですし、DJが持っているレコードの質だとか、選曲の仕方とか、もう圧倒的に日本のDJのほうが質がよかったんです。

もちろんこれは僕個人の感想ですが。例えていうと日本の野球がメジャーリーグに勝つみたいな感じですよね。なので、カナダでも当初の目的があっけなく崩壊してしまって。

高村家の家紋がさり気なく飾られていたり、宿はスタイリッシュな和のテイスト
高村家の家紋がさり気なく飾られていたり、宿はスタイリッシュな和のテイスト

高村:ちょうどそんなときに出会ったのがバンクーバーの図書館で見た、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう※江戸時代の画家)のビデオ映像でした。海外で放送されたNHK制作のドキュメンタリーでそれを見て、「日本に、今よりずっと昔にこんな画家がいたんだ!」と思って感動したんです。

 

「こんなやり方でものをつくって自分を表現すると、自分自身が活きてくる」というのがはっきりわかった。自分がお金を稼ぐとか、そういうこととは関係なく。 伊藤若冲は画家ですから、この世を去って、今も現物の掛け軸がある。そのことにも感銘を受けて、日本に帰ったら、映像のオープニングで映された伊藤若冲のお墓がある京都のお寺・石峰寺(せきほうじ)へ行って、自分がDJとして演奏できたらなという「夢」が、漠然と出てきたんです。

−−−カナダにいたからそういう日本的なものに興味が湧いたのでしょうか?

高村:そうだと思います。カナダに行く前までは、アブストラクトというか抽象的な絵が好きだったのですが、海外に出ると改めて「日本ってなんだろう?」って考えますよね? そういう気持ちも追い風になって見つけたっていうのはあると思います。

新たな夢を持って帰国し、行動へ。

−−−その後、さっきおっしゃった夢を新たに持ったわけですね。

高村:はい、若冲に出会って、日本に帰ったらそのお寺でDJさせてもらいたいという気持ちを持って帰国しました。帰国後は、京都に住んでいましたが、ある日手紙を書いたんです。毎年、石峰寺では伊藤若冲の命日に若冲忌という行事をされていたので、住職さんに「DJ(自分の音楽)で伊藤若冲を称える奉納演奏をしたい」という内容が書かれた手紙を渡そうと思って、決意してアポなしで行きました。

その時お渡ししたのが、お寺にいた女性の方で、「住職に渡しておくね」と言ってくださいました。1週間後くらいに、また、奉納演奏が可能かどうかの結果を聞きに訪れたら、住職が出てきたんですが、イメージと全然違う方で。

ひとつひとつの質問に真摯に答えてくださる高村さん
ひとつひとつの質問に真摯に答えてくださる高村さん

高村:住職というと、恰幅のいいおじさんが出てくると思いきや、スマートな若い住職が出てきたんですね。それで、よくよく話すと僕と同い年で、手紙を渡したのは住職のお母さんだったんです。

通常は若くして住職っていうのはあまりないようで、やはり50〜60歳位でなる人が多い。で、珍しい僕と同い年のご住職が「これからのお寺のことを考えると寺のあり方もいろいろと変えていきたい。若い人の才能をもっと発掘したいとも思っている。だから、せっかくだからその奉納は伊藤若冲忌にやりなさい。そしたら美術界のいろいろな人も来るから、見せることもできるチャンスもあるから」と言ってくれて、DJで若冲忌に奉納演奏が出来ることになりました。

行動すれば夢は叶う。考え方と生き方が変わった出来事

−−−アポなしで行ってその年に夢が叶ったんですね!

高村:叶いました! 実は自分の人生のターニングポイントっていうのはそこで、絶対出来ないだろうと思ってたことが、自分が行動することによって実現した。それまでは、カナダに行ったのもどこか成り行きみたいなところもあって、ちょっと女の子にモテたいとか、カッコつけたい、みたいな部分もあったわけです(笑)。「ちょっと海外行ってくるぜ」みたいな。

でも、そのお寺さんというのは、全く個人的な思いで、ツテも何もなくぶつかった。そのときに住職とお母さんが受け入れてくれた。まったく名もない実績もない自分だったのにそれを受け入れてくれた。

もちろんお寺始まって以来初めてのことだったんですよね、音楽を奉納する、しかもDJでというのは。だから、自分の使命というか、やるべきこと・やったことについての意味みたいなものを考えて、そこからものの見方がかなり変わった気がしています。

それまでは、悪いことがあったら「やだ」って感じで避けたりしていたのですが、このことがあってから後は、いいことも悪いことも、捉え方次第、「これは出会いだから、何か意味がある」という風に考えるようになりました。

実家が宿であることを意識したこともなかった

高村:それからあとは、旅をしながら美術館やギャラリーを巡ったり、そこで音楽をさせてもらったり、という活動をしていました。京都から山中湖の実家に戻ってきて、コンビニでバイトして資金を繋ぎつつ、夜は自分の音楽をつくって、ときどき演奏活動しに行って、みたいな感じでしたね。

−−−その時代に、ご実家が宿をやっているという意識はあったのですか?

高村:まったくないです。継がない、と思ってました。「音楽で食ってくんだ!」と思っていましたし、実家が宿をやっているという意識もしてなかったです。

ただ、音楽をつくって演奏して、とやっているうちに、だんだん続けていると見せ方がうまくなってきて。僕は自分が「これがやりたくてやってる。聞いて聞いて!」みたいな気持ちが、音楽を通して伝わっていくのがいいと思っているんですが、だんだんそれが、「こうやったらこう伝わるだろうな」と頭デッカチになってテクニック寄りになってしまった。

自分でもそういうテクニックに走るのが嫌だったんですが、自分は音楽で食っていきたいし、どうなのかな〜と悩んで、くすぶってたんですね。

ホトリニテのキャラクター白のホトリちゃん。顔がホの字になっているのがわかりますか?
ホトリニテのキャラクター白のホトリちゃん。顔がホの字になっているのがわかりますか?

高村:僕が最終的にやっていた表現方法は、DJセットがあって、スピーカーを10個並べて、広い空間でバイオリンを持って、DJを使って音楽を流しながら、自分でバイオリンを弾く、というパフォーマンス表現でした。

「こういう風にしたら、人はこういう風に感じる」っていうスタイルがだんだんわかってきたものの、「でもそれって自分がやりたい音楽じゃないんじゃないかな?」と思ってもいたわけです。わかってたんですけど、でも変えられないというのもあったりして。

で、そんなときに、テレビのドキュメンタリーの話が来たんですね。やっぱりテレビに出たらそれで箔がつくわけですから、音楽で食えるし!

−−−コンビニバイト卒業!みたいな(笑)

高村:そうそう、もう夜勤なんてやりたくない!みたいな(笑)。

そうか、良いきっかけだなと思って最初はそのお話を引き受けました。番組的には「ある若者が山中湖の麓で近所の人や自然と触れ合いながら音楽を続けていく。つくった音楽が、山梨を発信する」というようなストーリーで紹介したかったようで。先方からはっきりとは言われなかったのですが、なんとなくそういう雰囲気が感じられたんですね。

で、テレビのドキュメンタリーだから、いろいろ質問されるわけです。これはなんでこういう風に作ってるんですか?とか。山中湖の影響ってありますか?とか。

でも、僕はそのときは地元の山中湖のことなんて全然気にしてなかったから、「別にどうでもいいと思います」とか言っちゃって、たぶん先方の求める答えとは違っていた。と同時に、やっぱりテレビだから、ちょっとカッコつけて自分にないものを背伸びして答えてもいる。急にそういうことが嫌になってしまって。音楽自体も頭デッカチになっていて伝わらないし…。

これは音楽活動そのものに対して潮時なんじゃないか、と判断して、テレビのお話だけでなく音楽自体をやめようと決めました。テレビ番組の話も、申し訳ないけれど、と理由を述べて中断してお断りすることにしました。

宿の目の前が山中湖。湖畔まで出ると富士山を眺めることができます
宿の目の前が山中湖。湖畔まで出ると富士山を眺めることができます

宿は人とのコミュニケーションツール

高村:自分はなぜ音楽をやっていたんだろう?」「何を伝えたいんだろう?」と改めて考えたとき、自分は音楽自体が好きだったのではなくて、「自分がこういうことをしている」ということを表現したり、人と話をしたかったのかな、と思い始めました。

例えば、知らない土地に行って「僕はこういう音楽やってます」って言うと、なんとなくそこでどんな奴かがわかるので、相手方は安心したりしますよね?なんとなく理解してもらえる。普通に何もしないでそこに行っても、「この人はなんですか?」となって、なかなか中に入っていけない。

僕は、そういう人とのコミュニケーションツールとして音楽を捉えていたんだな、ということに気づきました。

石峰寺のお寺での出会いが自分のターニングポイントだったと気づいて、音楽をやめて、自分がやってきたことはなんだったんだろう?と改めて考えたときに、「あ、宿って毎日違う人が来る、こちらから動かなくてもいいんだ」と、そのとき初めて実家が宿だということを良きこととして認識しました。

−−−旅をしなくても、宿に居れば人は来る!と。

高村:そうです、向こうから来るって気づいたんです。実家が宿というのは天命かもしれない、と思いました。

その頃この宿は本当に寂れてたんですね。健康保険組合の保養所の契約をしていて、祖父の代からやっていて、父親が経営していたのですが、利用者も少ないし、このままだと発展の見込みも少ない…。ということで、「自分が経営に入る。頑張るから、保養所の契約を打ち切って普通の宿としてやっていく」と父親に話して、結果的に家業を継ぐことになりました。

ホトリニテ全景。紅葉の時期はことさら美しい
ホトリニテ全景。紅葉の時期はことさら美しい

−−−(THE OWNER INTERVIEW #04 後編に続きます)

 

次回のTHE OWNER INTERVIEW #04 その2では引き続き山梨県山中湖村、湖の畔にある宿ホトリニテ、「本質的に突き抜けたい」と、ユニークな宿を運営する若き三代目・宿主高村直喜さんの宿へのこだわりについてお話をご紹介。どうぞお楽しみに!

宿 ホトリニテ http://hotorinite.com

富士五湖のひとつ山中湖畔に建つ1960 年創業、3 階建15 部屋、 和室中心の素泊まり宿。ライブラリー、共用冷蔵庫、ドミトリー 室、駐車場あり。富士急富士山駅より路線バス30 分、新宿方面 からの高速バス「山中湖ホテルマウント富士入口」より徒歩5分。

料金:個室1室1名3,990円 相部屋1名3000円IMG_0827

〒401-0501 山梨県南都留郡山中湖村山中1464
TEL 0555-62-0548 (受付時間9:00~22:00)
MAIL hotorinite@gmail.com

ホトリニテに行ったらやりたい4つのこと

Written by

西村祐子 / ゲストハウスプレス編集長  : 「好きなことをして生きる」を実践するべく活動するライフクリエイター。2017年より神奈川の海辺から大阪にUターン。現在はあたらしい旅と暮らしの発信基地Wanderers!の運営をはじめ、 旅にまつわるさまざまな事業プロデュースを行っている。http://moanablue.com/life