ゲストハウスプレスー日本の旅の、あたらしいかたち。

 

#02 ゲストハウス蔵(長野)前編

THE OWNER INTERVIEW #02
ゲストハウス蔵(長野)/山上万里奈さん

前編 日本語教師からゲストハウスオーナーへ

本全国に増えているホステルスタイルの宿「ゲストハウス」。ゲストハウスプレスでは、オーナーや運営者へのインタビューを通して、ゲストハウス運営に込められた深い想いや目的がどのようなものかをお伝えします。ご紹介する個性あふれる宿たちは、「安いから泊まる」「旅の途中だから泊まる」という従来の安宿の概念を越え、ホテルや旅館とも違う、新しい旅の概念を、あなたに教えてくれるかもしれません。

第2回目のインタビューは、長野県須坂市で2012年秋にゲストハウス蔵を開業された山上万里奈(やまかみまりな)さん。山上さんは高校時代まで須坂市に住み、その後埼玉の大学で日本語を教える面白さに目覚め、日本語教師の資格を取得。そんな彼女が地元・須坂に戻り、ゲストハウス経営を始めるまでには、まるでドラマのような波瀾万丈のストーリーがありました。その1では、山上さんのゲストハウス開業へ至る道のりを中心にご紹介します。
(全2回連載)聞き手:西村祐子(ゲストハウスプレス編集長)

日本語教師になりたい!そのイバラの道。

−−−ゲストハウスを始めるまでは、日本語教師をされていて、ずっと続けたいと考えていたんですよね?

山上:はい。ですが、日本語教師の資格を取った大学時代の担当教授には反対されていました。日本語教師の職は、それだけで生計が成り立つような職業じゃない、と。でも、どうしても日本語教師しか興味がなくて、大学卒業後に日本語学校の非常勤講師になりました。

目標だった日本語学校の「専任講師」になるためには、まず3年間の非常勤講師の経験が必要、というシステムなのですが、非常勤講師のお給料が・・・。私の場合は初任給が4万円ちょっととか、そういう世界でした。

ですから、非常勤講師の他に、割烹料亭などでアルバイトをして生計を成り立たせていました。バイト掛け持ちで生計を立てていた上に、授業計画を立てて、授業して、バイト行って、とやっていたので、寝る時間もない程でかなりボロボロでした。

−−−うーむ、それは想像以上に厳しい!

山上:その学校を1年程で辞めることになったのですが、その理由もわりと理不尽で、日本語学校の経営状態が悪化し、学校自体の存続も危ないかも、という外部要因で、新人教師のわたしともう一人の新任の非常勤講師の先生が、肩たたきといいますか「来年はちょっと考えたほうがいいかもしれませんね」なんて言われて・・・。

ただ、専任講師になるための3年間の教授経験というのは、特に国が指定されているわけでもなく、海外で経験を積んでもいいんですね。とにかく3年間の講師経験があればよい。だったら海外での経験もいいかもな、と思って、それであとの2年間は中国に行くことにしたんです。

レセプションでゲストと話す山上さん
レセプションでゲストと話す山上さん

中国での日本語教師生活で新たな異文化体験

山上:中国では、1年目は山東省にいて、有名なところでは青島(チンタオ)などがありますが、私の赴任先はほんとの超ど田舎で。一年間、そこに私と60過ぎのおじいちゃん先生がいたんですが、その先生以外、他国の外国人にも日本人にも会わなかったくらい場所です。

−−−そこで1年頑張ったんですね!つらくはなかったですか?

山上:いえ、そこでの体験は、すごく面白かったですし、現地の方にとてもよくしてもらいました。実は私たちが赴任する前に、日本人の先生が2人赴任したことがあったのですが、すぐに辞められたそうで。なので、赴任先の校長先生には「とにかく1年いてください!」と最初に言われていて。ただ、その前の先生たちが続かなかった理由の一つが、「現地の人は2週間に1回しかシャワーを浴びない」ということだったんですよね・・・。

−−−うっ!2週間・・・。日本人としてはさすがにそれはなかなか想像しづらい。

山上:山東省は中国でも北部にありますが、夏は普通に暑いんです。そんな状況で私たちが「2週間に一度のシャワー」に耐えるってやっぱり相当厳しいじゃないですか。しかも、水量ももちろん、チョロチョロとしか出ないという(笑)。 で、私たちが行ったときは、「1年間どうしてもいて欲しいから、シャワーマシンを買いました」と言うわけです。「だから、シャワーは毎日浴びられます」と。

そんな配慮もあり、私と、もうひとりの先生が初めて1年という任期を満了した日本人教師になりました。 2年目はその田舎から、今度は中国の都会も見たいと思って、上海のとなりの杭州に行きました。そちらは生活レベルも高かったので、日本とほぼほぼ変わらない生活でした。その後日本に帰国し、初めて専任講師として、千葉にある日本語学校に赴任しました。

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宿泊業との出逢いは偶然でした

山上:その後、晴れて専任講師になったその日本語学校でもまた、辞めざるを得ないようなことが起きてしまったんですよね。 その時、今後この職を続けていくにしても、一度社会経験を積んだほうがいいのでは?と思い、これもいい機会だと思って、OLをやろう!と、貿易事務の仕事に就きました。

OLにはなったけれども、その時はまだあくまで社会経験であり、この経験はビジネスクラスの日本語を教えたりする際にも無駄にはならないから、と、考え方の軸足はずっと日本語教師にありました。

当時、その頃お付き合いしていたスリランカ人の彼と結婚するために奔走していたのですが、国際結婚の手続きが予想をはるかに超えて大変で。(※偽装結婚防止のため、ものすごい量の書類や証明書などを提出する必要がある)とにかく、どうにもこうにも結婚ができなかった。結局、いったん彼は帰国せざるを得なくなりました。

それで、彼を待っている半年の間の仕事として、住み込みで働く飛騨高山の旅館のアルバイトをすることにしたんですね。 勤務先は、まったく私自身の意図はなくて、ただ「住み込みで働く」という条件で派遣会社に紹介されただけ。たぶん(非常勤講師時代に割烹料亭でバイトをしていた経験で)着物が着られるというのもあったかもしれませんが、そんなご縁で旅館で働くことになりました。

ゲストハウス蔵の美しい中庭。奥に蔵スペースもある
ゲストハウス蔵の美しい中庭。奥に蔵スペースもある

−−−大げさかもしれませんが、今から思うと外国人の多い飛騨高山での旅館のアルバイトが意図せずやってきたことは、運命のような、ある種の啓示のような気もしますね。

山上:確かに、結局ここでの経験が、ゲストハウスをやろうと思う大きなきっかけになりました。飛騨高山は外国からのお客様も多い街ですから、外国人ゲストに町案内したり、日本のあれこれを紹介したりするのがおもしろかったんです。
でもそのときに、私はもっとサービスしたい!!と思うことも多くて。でも宿の方針で「もうそれ以上はしなくていいよ」となると、それ以上はできないじゃないですか。

だったら、自分が思う存分ゲストの方におもてなしをするためには、自分で宿をするしかないかな、とそこで思い始めたんですね。日本語教師も、どこがやり甲斐かを考えると、「外国の人に日本を紹介したい」「おもてなしをしたい」という心が一番大きかった。だったら、自分たちで宿をやれば、自分のそうした思いも叶えられるのではないか?と考えたのです。

−−− 日本語教師という「職業」や「肩書」は、自分の思いを表現する手段であって、それ自体が目的ではない。ゲストハウスを経営すれば、山上さんの日本語教師でやりたかった深い部分での思いや目的が、よりあぶり出されたかたちで表現できると気づかれたのですね。

山上:そうかもしれないです。そして、結婚したその後の彼の人生を思っても、日本に戻ってきてまた就活して東京で暮らして、夜遅く帰ってきて・・・というような生活をするよりも、ゲストハウスをふたりで経営するって思い描いたほうが、楽しい人生になるんじゃないか、と思いましたし、彼も賛成してくれたので、その方向に踏み切りました。

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タイミングは最悪、覚悟を問われた修業時代

山上:2010年の冬頃に、ゲストハウス開業に向けて具体的なことを考えはじめました。都会で宿業をすることは考えておらず、出身県の長野で、とは思っていましたが、当初はここ地元の須坂ではなく、交通至便な長野駅周辺などを考えていました。そして、物件を探しだすと同時に、宿業をやったことないので、ちゃんと修行したい、という思いが強くなって。

ゲストハウスには、ヘルパー制度というのを採用している宿が多いのですが、ヘルパーだと、チェックイン対応や掃除などはさせてもらえるけれど、おそらく経営面では、そこまで踏み込んで教えてもらうことはないかなと思いました。

ゲストハウスの経営を学ぶにはどんな方法が?と高山の旅館で働いているときから、「どうしよう?どうしたらいいか?」といつもパソコンで検索などをしていたわけです。そこでヒットしたのが宿場JAPANでした。

それで、宿場JAPANが経営しているゲストハウスが東京・北品川にあるゲストハウス品川宿で、運営しているタカさん(渡邊崇志さん)に相談して、修業させてくださいとお願いして、まだゲストハウスを始めるための物件も場所も決まってない段階で、修業をすることに決まりました。

ただ、その相談した時期というのが、2011年3月11日に起きた東日本大震災の一週間位前だったんですよね。いつ面接するかなど、話が具体的になってきたときに震災が起きてしまい、「どうするの?今、ほんとにやるの?」というような状況だったんです。

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−−−「震災や原発事故の影響で、これからゲストハウスの顧客の何割かを占めるはずの外国からの旅行者が減ってしまう可能性があるけれども、それでも始めるのか?」と、ちょっと試されるような状況だったわけですね。

山上:タカさんに「外国人客が減る、それはもう確実だし、タイミングとしては最悪だけど、どうする?」と問われました。でも、例えば、宿をやるのをその時点でやめて、被災地にボランティアに行くのも支援になるけれども、震災を理由に自分のやりたいことをやめても震災のせいになっちゃうし、自分のやりたいことを諦めずにやるのも、ひとつの復興支援になるんじゃないかな、という思いになり、「いや、やります」と言いました。

ただ、品川宿自体も、震災直後はやはりほとんど予約は全キャンセルだったので、2011年のGW明けからということで、3ヶ月ほど修業をさせてもらいました。

−−−そこでの経験がこの宿には活きていますか?

山上:それはもう最初から全部お世話になりっぱなしで、宿場JAPANとタカさんには大感謝しています。ゲストハウス蔵の事業計画も修行時代に作りました。開業後もいろんなトラブルが起きるたびに、相談に乗ってもらったり、都会の宿・品川宿と、田舎の宿・ゲストハウス蔵と、ゲストを紹介しあったり。交流もまた深まっています。

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ゲストハウス蔵 http://www.ghkura.com

長野県須坂市の古民家を活かした和室ドミトリー&個室にラウンジ・キッチン・カフェを併設したゲストハウス。

長野電鉄須坂駅より徒歩15分、駐車場あり。
料金:男女別相部屋1泊3,000円〜 個室1泊1名様4,200円より
冬期は暖房費として300円UP。最大定員12名

〒382-0086 長野県須坂市本上町39
TEL 026-214-7945(8:00〜23:00)
info(@)ghkura.com
ゲストハウス蔵に行ったらやりたい4つのこと

Written by

西村祐子 / ゲストハウスプレス編集長  : 「好きなことをして生きる」を実践するべく活動するライフクリエイター。2017年より神奈川の海辺から大阪にUターン。現在はあたらしい旅と暮らしの発信基地Wanderers!の運営をはじめ、 旅にまつわるさまざまな事業プロデュースを行っている。http://moanablue.com/life